「ちょっとそこまでひとり旅 だれかと旅」(その2)終わり2015年02月12日

ちょっとそこまでひとり旅 だれかと旅
「ちょっとそこまでひとり旅 だれかと旅」
益田ミリ 著  幻冬舎  1,200円

続きです。

母親と二人で、京都へ行く。
お正月に5日、お盆に5日、一緒に旅行したとしても
1年に会う日数は15日ほど。
わたしは、この人と、あと何日会えるんだろうかと、暮れゆく空を見つめる。

(親と同居していないと、その気持ちよくわかる。親孝行しなければ。)

鹿児島市内から車で1時間ほどの、「大汝牟遅(おおなむち)神社」に、
「千本楠(くす)」というのがあり、行ってみる。
境内から歩いてちょっと行ったところに、巨大な楠の群生地がある。

(面白そう、行ってみたくなった)

「吹上浜」は、日本3大砂丘のひとつ。
(知らなかった。鹿児島に行ったら、ここにも行ってみたい)

小津安二郎からみで、「茅ケ崎館」に行く。
「東京物語」、「晩春」、「お早よう」、「秋刀魚」
なにげない日常がこんな素晴らしい映画になるんだ!

(小津作品を観てみようか、という気になった。そのうちケーブルTVで放映されるだろう)

いつでも行ける場所であっても、次回も同じ旅ができるわけではない。
気分、気候、体調、それぞれのバランスで旅の温度は決まっていく。
同じ旅はもうできない。
それをなんとなくわかっているから、いつまでも名残惜しいのだろう。

ヘルシンキ。
世界遺産「スオメンリンナ要塞」に行く。
どこかで見た景色に似ている。
上陸してわかった。「天空の城ラピュタ」だ。ラピュタの世界だ。
映画や本やお芝居や音楽。
なににも触れずに生きていたら、人生はうんと単調に違いない。

(本当にそうだ。たくさん映画を観よう、本を読もう、芝居を観よう、音楽を聴こう、と思う)

30代から40代になって、瞬間の幸せを認められる力が備わった。
ヘルシンキの街を気ままに歩いているときのわたしの「幸せ」は、
完璧な形をしていた。
わたしを惑わすものなど、なにひとつなかった。

(こんな瞬間を、たくさん味わいたいものだ)

奈良公園で修学旅行中の中学生に出会う。
ひとりでいる子がいる。
どのグループとも交わっていない。
鹿も、奈良公園も、きれいな夕焼けも、お土産屋さんも、
あの子にとっては、どうでもいいものではないか。
この行程を、たんたんとやり過ごすことがすべてなのだ。

早く「大人」という場所に逃げておいで。
なにもできないわたしは、彼に、彼女に、ビームを送った。
大人になれば、少しだけ自由だよ。
ひとりで旅に出たって平気だよ。

この項、終わり。